2016年6月16日 (木)

朱雀高校 妊娠生徒に体育要求

 朝、京都新聞を手に取ると、一面に「高3オメデタ祝ってね♡」続きの社会面には「妊娠生徒に体育要求」の見出し、記事を読んでみると、
 高校最後の夏休み。海辺で友達とはしゃぎ、かけぬけたまぶしい日々。夏の終わり、妊娠に気づいた。そして高校から休学を勧められた。「無理して学校に来ても、体育の実技が出来ていないので、成績が「1」になり卒業できない。補習も実技だ。」と言われたとのこと。
 昔ならば、校則で不純異性交遊で退学にされるか、陰でうやむやに処理される問題であると思うが、どういう訳か京都新聞で大々的に報道されている。私は古い人間であるので、まず高校生が妊娠するのはどうかと思うし、こんな事新聞に出すことかと思うが、京都新聞は高校の副校長の対応が問題と言いたいらしい。「妊娠すれば子育てに専念すべきで休学となる。」と言う学校の言い分がそんなに間違っていると私には思えないが、最近はいろんな考え方があるので、これ以上の私見は述べない。
 ただ京都新聞の記事の記載方法に大きな問題があると思う。学校側は体育の実技の補習を受けなければ単位が取れないので卒業できないと言っているのであるが、京都新聞の大見出しは「妊娠生徒に体育要求」となり、見出しだけを見れば、まるで体罰を与えているような書き方をしている。これは正に高校に対して悪意を持って見出しを書いているとしか思えない。新聞というものは見出しである程度、記事の内容が解るようにするのが原則で、読者にわざと誤解を与えるような書き方はとんでもないやり方だ。
 最近の京都新聞はこの間違ったやり方を多用しているように思える。文脈の通らないことも多い。この記事の中でも1950年から10年ごとの10代で出産した母親の推移として棒グラフを載せているが、昔の数が多いのは結婚年齢が低かったので当たり前のことで、このグラフがこの記事の中でどんな意味があるのかまったく解らない。
 一般紙の一面に、ピンク色の線で囲み♡マーク付きの「高3オメデタ祝ってね♡」の大見出しもいかがなものか。
 私は生まれた時より京都新聞がある生活を続けているが、最近の京都新聞の記者が書いた記事は昔に比べかなり内容が低下しているように思う。内容の乏しい偏った記事で、正義の味方ぶっているものも多いように思う。京都新聞ファンであるが故、もっと記事の向上を目指し頑張ってもらいたい。

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2014年8月30日 (土)

6年

昨日の日本テレビの野球中継に対する怒りが収まらず、つい6年振りの茶っぴ庵閑話となったが、その後、投稿の仕方さえ忘れかけていたココログを眺めていると、スマホでも投稿できることを発見。

茶っぴ庵閑話恒例の昔話だけど、昭和30年代の1年は社会生活に大きな変化をもたらし、6年となればかなりのものだった。
チャッピー亡き後の6年は、そんなに変化を感じない。部屋の中を見渡しても一部の電化製品が変わっている程度だ。
このような時代の中で大きな変化を感じるのは携帯電話だろう。多分、6年前はまだ全く無かったスマートフォンの普及である。街中、電車の中等でガラケー(こんな言葉いつできた?)をほとんど見かけなくなった。まだまだ、ガラケーの所有者も多いと思うが・・・。
我々の世代は成人になってから現れたワープロ、パソコン、携帯となんとか こなしてきた。そしてガラケーで十分と思っていたが、やはり、スマホは便利で面白い、しかし、これからの情報通信機器の進化にいつまでついていけるだろうか。
比較的最近の再放送のテレビドラマ等を視ている時、携帯の有無、携帯の形で、おおよその制作時期が分かったがスマホになってから変化が分からない。スマホの形は変化するのだろうか。スマホの次は何?

スマホでの入力疲れた。

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2006年11月27日 (月)

キュビオスとビエラ

 大鵬でなく柏戸、巨人でなく阪神が好きだった。インスタントラーメンは日清よりエースコック、政治は解らなくても選挙の開票速報で社会党が自民党に勝てばわくわくした、漫画はサンデーよりマガジン。子供の頃、何故かナンバー1より対抗馬が好きだった。
 親に買って貰った初めてのクルマはトヨタだったが、自分で買った4台はトヨタではない。ビールはアサヒを飲み続けてきた(トップになってしまったが・・・)。今も子供の頃の性格は残っているようだ。
 昭和30年代の急激な電化製品の導入は我が家は東芝製品だった。当時の家電店はメーカー直販店のみで店を決めれば他のメーカーと比べて購入することは出来なかったが東芝がいいと思っていた。間もなく私の故郷の田舎町でもナショナルショップが目立ち始め、我が家もナショナルに変わったが・・・。
 結婚当時、妻が家電製品を揃えたが、テレビは私が独身時代に使っていたものだった。結婚7年後にテレビを買い換えた。私にとって初めての量販店での大型家電の購入だった。いろんなメーカーを比べながら値段交渉をし購入するのは画期的なことだった。テレビラックに収まる最大のテレビがパナソニックだったためこれを購入した。このテレビを17年以上使い続けた。

 我が家の居間は結婚当時のテレビラックを中心に安物の家具を横や上に増やし続けてきたが、収拾がつかなくなり、今回プチ改築を決意。以前から気にかけていた松下電工のキュビオスを取り入れることにした。2日間の工事で壁一面の収納スペースができた。テレビ台の上に17年頑張ったテレビを置けばなんと小さい。パナソニックの耐久性を認め、迷わずパナソニックのプラズマテレビビエラを購入。デジタルハイビジョンの写りは目を見張る。やはりナショナルの大衆性はいいなあと納得。ナンバー1嫌いはどこへやら・・・・・。
そろそろトヨタ車もいいかなあ・・・・・。

 でも野球はもちろん今も昔も阪神です。

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2006年6月 3日 (土)

スピード違反

 あまりクルマで遠出しない私だが、先週の金、土に母と下の兄との三人で湯村温泉に出かけた。
 義姉が亡くなってから二度目の三人での温泉旅行で、静かな夢千代の里で楽しい時を過ごした。二日目は鳥取砂丘に寄り、日本海、余部鉄橋を眺め京都へ向かった。

 香住から豊岡の途中で、スピード違反取締りに引っ掛かった。何の危険性も感じられない田舎の国道の直線部分で警官が飛び出してきた。隠れた所へ連れて行かれると、4,5人が違反切符を切られている。私は制限50キロを65キロ、15キロオーバーとの事。他の人は25キロオーバーとか、29キロオーバーとかの声が聞こえている。こんな問題の無い道で、65キロ出ていたかどうかも定かではないが、65キロで捕らえるとは。私の後は、猛スピードを一台捕らえた後、店じまいになった。

 免許取得後、31年間無事故無違反を続けてきた私は違反初体験である。今までは運がよく、今回は運が悪かった訳だが、楽しい母子旅行も一瞬に気分が沈んだ。善良な市民のささやかな憩いの一時を奪い取られ、ゴールド免許というものが出来て以来続けていたゴールドも次回更新で奪われる事になった。

 15キロとはいえ違反は違反なので、月曜日に即12000円の反則金を母に振込みに行ってもらった。姑息な交通取締りも仕方がないとは思うが、警察には、国民が本当に正義の味方だと賞賛するような仕事にも頑張ってもらいたい。

 しかし、31年間続いた無事故無違反が途切れ、ゴールドでなくなるのがなんとも悔しい。

 レーザー探知機なるものを購入した。

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2006年3月18日 (土)

卒業式

 昨日は娘の卒業式だった。妻と共に出席した。
 女子大のため、卒業生の99%は着物袴姿でとても華やかな式だった。
 中学からの女子校生活だったが、早くも10年が経った。

 娘は生後6ヶ月で保育所に入所して以来、22年間の保育所、学生生活を終えた。娘の晴れ姿を見ながら、様々な出来事を思い出す。たった一人の子育てであるが、娘のお陰で、親としてのいろんな経験をすることができた。
 共働きのため、娘と接する時間はどうしても甘くなってしまったが、それはそれでよかったと思っている。
 親の責任は一応果たしたことになるのかな。これから娘は社会人、私達は老後に向かっていく。

 娘の成長は嬉しいものだが、一抹の寂しさも感じる。

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2006年2月11日 (土)

セイコー5

 通信販売のチラシで見かけて以来、少し気になっていた「セイコー5」逆輸入モデルをネットショップで購入した。
 多種多様のモデルがあったが、どうせ実用性の低い物だからと、娘に冷笑されながらロレックスタイプを選んだ。待つこと2日でピカピカのセイコー5が送られてきた。一万円足らずの品とは思えない出来栄えで、日差も5秒前後、さすがセイコーと大満足。

 高校進学を控えた昭和44年12月、当時、腕時計は廉価な物でも高価だった。我が家は高価な買い物には父も顔を出した。両親に連れられ近所の時計店に出向き、「セイコー5DX」を買ってもらった。私にとって初めての腕時計で、嬉しくて家の中でも付けていたのを覚えている。この時計とは高校、大学と常に一緒で、就職後も独身時代は使い続けていた。
 新婚旅行で、当時は免税店での舶来品はかなり安かったので、「オメガのクオーツ」を購入した。そのため、「セイコー5DX」は現役を引退することになった。
 その後は最も高価な物でも、タグホイヤーの廉価版程度で安物の時計ばかり10個以上購入している。未だに腕時計には特別な思いを持つ古い人間の私はロレックスの一つも欲しいところだが、手を出せずにいる。

 その後の「セイコー5DX」は引き出しの中が定位置だが、36年間一度も裏蓋を開けたことはないのに、今でも、少し振ると動き始め、日差30秒程度で十分実用に耐えうる。日付、曜日も完璧である。セイコーの技術は真に素晴らしい。

 現在は「シチズンアテッサ エコドライブ電波時計」を主に使っている。性格はぐうたらなのに何故か時計のわずか数秒の狂いが気になる私には、こんな時計を使い出したら、他に戻れないような気がする。
 「5DX」は秒針停止装置が付いているが、今回の「5ロレックス」にはない。仕様書では平均日差±40秒。しかし、このような時計を身に付け、時を送るのがいいのかもしれない。

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2006年1月29日 (日)

5年前の写真

 娘も4月からは社会人、我が家の家族旅行も今後益々日程調整が困難に成る事が予想されるため、3月に、今回は近場から少し離れ、オーストラリアへ行くことにした。

 旅行の申し込みで5年前に作ったパスポートを見ていると、取得当時、以前のパスポートの写真に比べ、私も妻も、なんか年いってけったいな顔やなと思った写真が、今の私や妻よりもまだましと思えるから不思議である。
 運転免許の写真でも、いつもそのように感じるが、5年という歳月は確実に人間を変化させる。
 作家の吉行淳之介は、あまりにも美少年であるため、年老いた顔姿を想像することが出来ず、自分は若死にするに違いないと思ったという。
 私も同じ様な事を感じた時があった(自惚れすんまへん)。ところが、30代に入れば徐々に体重は増え、髪は減り始め、十分自分の将来の姿を想像出来るようになった。今ではよぼよぼのお爺さんになった時の顔さえ、なんとなく判るような気がする。
 5年後のパスポートの写真より今の自分の方がまだましなのだろう。

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2006年1月15日 (日)

消えたふるさと

 私の故郷園部町は隣接3町と合併し、今年1月1日に南丹市になった。
 園部は江戸時代、園部藩3万石の城下町として栄え、明治22年の市町村制施行当初より園部町として、116年の歴史を持っていた。
 口丹波の政治、経済、文化の中心地であったが、昭和の大合併では、口丹波のライバル亀岡が人口3万を越え市に昇格したのを横目に見ながら、園部は町制を続けることになった。
 しかし、亀岡にはない法務局、税務署、労働基準監督署等、多くの公の機関を有し、口丹波の中心地との自負を園部人は持っていた。
 平成の大合併の嵐の中、我が園部町も隣接町との合併となった。合併後の人口の5割弱を有し、町役場が市役所に変わり、新市の中心でありながらも、新市名は馴染みのない南丹市、由緒ある園部の名は消えてしまった。
 園部市誕生を待ち続けていた、園部幼稚園、園部小学校、園部中学校、園部高校出身の生粋の園部っ子だった私としては、なんとも寂しい限りである。
 山陰線の電化一部複線化、京都縦貫道の完成以後、除々に人口が増えていた園部町、園部市誕生を目指して欲しかった。
 船井郡園部町から南丹市園部町へ、4府県と隣接する全国でも珍しい市、市制要件を無視する平成の大合併、郡がなくなり、田舎も市になる、なんかおかしい。
 今度は道州制か・・・。長い歴史を持つ地方自治を打ち砕く大合併、そして道州制、本当に国、住民にとって必要なものなのだろうか。

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2005年9月 3日 (土)

父と娘

  春のなぎさを あなたとゆくの
  砂に足跡 のこしながら
  はじめて私の 家にゆくのよ
  恋人がいつか できたらば家へ
  つれておいでと 言っていた父
  夢に見てたの 愛する人と
  いつかこの道 通るその日を

  お茶をはこんだ 障子の外に
  父とあなたの 笑う声が
  聞こえてきたのよ とても明るく
  幸せなくせに なぜ泣けてくるの
  母のほほえみ 胸にしみたわ
  帰るあなたを 見送る道は
  おぼろ月夜の 春の宵なの

 小柳ルミ子の「春のおとずれ」という曲がある。小柳ルミ子の中ではあまりヒットした曲ではないと思うが。
 先日、クルマの中で一人この曲を聴いたとき、思わず熱いものが込み上げてきた。
 初めて妻の家を訪ねた時、義父と私は笑って話をした。かなり前のことだが、20数年も経ったと思えない。

 私は娘の恋人と初対面で笑って話しをすることができるだろうか・・・・。

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2005年8月28日 (日)

ピーくん

 義父は、家族に自分独自の呼び名を付ける人だった。

 妻は名前から子を外し、「○○さん」と呼ばれていた。京都弁の発音も加わり、かなり年寄り臭い。
 義妹は、子供の頃、ごんた(ごんたはごんたでしか表現できないが、あえて標準語を考えれば、わんぱく、わがまま、いたずらっ子あたりかな)だったそうで、「ごんさん」と呼ばれていた。結婚当初、私は「ごんさん」が誰なのか判らなかった。
 私はある日突然、「ぶんさん」になった。私のことを「ぶんさん」と呼んだのは、現在までは、義父のみである。
 孫は私の娘は、「○○たん」。妹の長男が「○○ぼん」長女は「○○たん」次男は「○ーくん」だった。義母と一致していたのは「○ーくん」のみだった。

 娘が幼かった頃、義父と私が将棋を指しているところに、娘が駒を触りにきた時などに「○○たん、ひかえなさい、ひかえなさい」とよく言っていた。
 チャッピーを初めて義父宅へ連れて行き、泊まった朝、2階から居間へ向かう時、懐かしい「ひかえなさい、ひかえなさい」が聞こえてきた。
 「ピーくん、ひかえなさい、ひかえなさい」、チャッピーは「ピーくん」になっていた。

 余談だが、どこの家にも、独自の呼び名は存在するものだと思う。
 妻は妹が生れた時、赤ちゃんを見て、「アーちゃん」と言ったそうだ。その後、現在まで、「アーちゃん」と呼んでいる。
 私は幼い頃、下の兄の事を上の兄と区別するため、「ちっちゃいにいちゃん」と呼んだ、その後、肝心な「にいちゃん」が消えてしまい「ちっちゃい」だけが残った。兄弟の中でも一番背の高い180センチを越える兄を「ちっちゃい」と呼び続けている。

 チャッピーの事を「ピーくん」と呼ぶ人はもういない・・・・・。

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